Netflix映画"Bird Box" (2018)『バード・ボックス』感想
原作小説に基づく作品なので、映画のストーリーにあれこれ文句を言っても仕方ないのですが、最大の謎である「それ」の正体が明かされないままエンディングを迎えるのは、この手のサスペンス系の作品としては肩透かしな印象が残るのも仕方ないと思います。あれこれと必死に推理・予想しながら最後まで観たものの、宙吊り状態のままエンドロールを迎えた時の徒労感…。
一応、「それ」の正体のおぼろげな内容は作品中の登場人物の台詞などで示唆されてはいますが、それがあまりにもオーソドックスなありふれた内容にすぎるので、さすがにこれはただの誤誘導に過ぎず、予想を裏切る真の正体が後々になって明かされるはずだと期待して鑑賞する人もいると思います。その期待を裏切られたという意味での肩透かし感はありました。
とりあえず、この作品の良かった点を挙げてみます。
1."Surviving is not living"(生き延びることと生きることは違う)の主題
映画の後半(1時間30分過ぎた辺り)、マロリーとトムが口論するシーンより。
トムは2人の子供たちに対して、自分が幼かった頃の話(夏になると花や蝶々に囲まれて他の子供たちと湖畔で過ごしたこと、そして大きなナラの木に登ったこと)を語って聞かせますが、これに対してマロリーは激怒します。生き残るのが精一杯の今となっては、子供たちに実現不可能な夢物語を語って聞かせることは害悪でしかなく、生き残りにとって支障にすらなり得ると。
Malorie: Because they'll never climb trees, they are never gonna make new friends.Why make them believe that?
Tom: They have to believe in something. What is this for if they don't have anything to believe in?
M: So that they survive!
T: Surviving is not living!
M: They're gonna die if they listen to you!
(適当和訳)
マロリー:この先彼らは木に登ることだってないし、新しい友達を作ることもないのよ。どうして彼らにそんなことを信じさせるの?
トム:彼らは何かを信じる必要があるんだよ。何も信じるものがなければ、何のために生きているんだ?
マロリー:生き延びるためよ!
トム:生き延びることと生きることは違うんだよ!
マロリー:あなたの言うことを聞いていたら、彼らは死んでしまうわ!
ここで繰り広げられている価値観の対立は、どちらか一方が正しいと客観的に優劣をつけられるたぐいのものではなく、両者の立場の調停も困難です。
・マロリーの論理:生き延びることこそが至上の価値を持つという考え。
・トムの論理:たんに生き延びることに何の価値もないという考え。人はパンのみにて生きるにあらず。善く生きてこそ人間である。
この価値観の対立は、一人の個人の内部でも起こり得るものです。
たとえば、自分が生き残るためには他人を犠牲にしても「仕方ない」という正当化をはかる場合など、内面的な葛藤が生じるのは誰でも経験があることだと思います。
この葛藤は、映画の中でもしっかりと描かれています。
それはマロリーが子供二人と急流下りをするシーンの後半部分です。
急流下りの最後の難関は岩場が多く川の蛇行も激しいので、これを越えるためには子供二人のうち一人が目隠しを外してボートの進路先を見なくてはならない。つまり、「皆が生き延びるために、誰か一人が犠牲にならなくてはならない」という究極の選択的状況に彼女たちは遭遇します。
ここでマロリーは葛藤します。実子である男の子が生き残るために、血の繋がっていない女の子を犠牲にすべきか否か。マロリーの表情を察した女の子は、自ら、自分が犠牲になることを申し出ます。
しかし、マロリーはこの女の子による犠牲の申し出を拒絶します。それに代えてマロリーが下した決断は、「誰も目隠しを外さない」こと。つまり、誰も犠牲にならないということです。
はっきり言って、この決断は無謀すぎます。ボートの進路を誰も見ないということが意味するのは、急流に飲まれて全員が死ぬ可能性が高いということです。
マロリーは死の可能性を承知の上で、決断に踏み切りました。「誰かを犠牲にして生き延びるくらいなら、いっそ生き延びないことを私は選ぶ」という価値観(これはトムの価値観を純粋化したものです)へのシフトがここで起こっています。
男の子が生き延びるためには女の子を犠牲にしても「仕方ない」という価値観から、女の子を犠牲にしてまで男の子が生き残るべきではないという価値観へ。
その後ボートは転覆するものの、マロリーと二人の子供は奇跡的に全員助かりますが、これはたまたま運が良かっただけです。あくまで重要なのは、あのシーンでマロリーが死を選んだこと。誰かを犠牲にしてまで生き延びたくはないと願ったという事実。
「いかにも」なトロッコ問題的シーンではありますが、映画の制作者が伝えたかったメッセージというのは明らかです。
ところで「誰かを犠牲にしてまで生き延びるべきではない」という価値観は言うまでもなく非常に危険でもあります。それは人を自殺(生きることの否定)へといざなうものでもあるからです。
ここで思い当たるのが、この映画において、「それ」を見てしまった者は自殺するという設定です。
つまり、「それ」の正体とは、実はこの自殺の論理(誰かを殺して生き延びるくらいなら自分が死んだ方がマシだ)そのものなのではないか?
この思想に憑かれた人は自殺を選ぶ。これがこの作品の裏メッセージなのではないかということです。
生き残ることをめぐるマロリーの論理とトムの論理との葛藤。
この作品が描いたのは、要するに、トムの論理(他者を犠牲にして生き残るくらいなら、いっそ自死してもかまわないという価値観)が世界を覆いつくし破滅に追いやる光景です。人々はバタバタと自殺していきます。
この破滅(自殺の連鎖)を唯一免れることができたのは、盲学校に集まる、目の見えない人たちの集団でした。このメタファーが意味するのは、そもそも最初から「見るな」ということ、すなわち、世界の破滅を生き延びたければ、自己と他者をめぐる思想的な葛藤など断じて抱えるなということです。下世話な言い方をすれば、文学・哲学なんてものに親しんで内面的な葛藤を抱えてしまうと普通に生きられなくなるぞ、生き残るためには何の役にも立たないどころか有害ですらある人文系科目など学校で教えなくてよろしい、ということです。
言うまでもなくこれらはあくまで皮肉です。生き残るためには何の役にも立たない文学や哲学やアートなどの人文系が急激に衰退していく今日的状況にあって、この映画はあくまでトムの論理の擁護者であると思います。
つまり、急流下りのあのシーン、誰も犠牲にしない、誰かを犠牲にするくらいなら心中した方がマシだとマロリーが決断するシーン。この映画のクライマックスはまさにここです。マロリーはあえて死を選び取りました。
自分が生き延びるためには他に犠牲を強いても「仕方ない」という正当化がかつてないほどにはびこっているのが、今という時代です。生き残るためには「仕方ない」の論理で正当化される最大の暴力が戦争です。
生存至上主義的な「仕方ない」の御旗のもとにあらゆる不正が正当化されてゆく。この潮流への異議申し立てとして、マロリーの決断があると思います。
こんな時マロリーならどう決断するだろうか?と一つ例題を考えるなら、もし日本の産業資本の生き残る道が軍需産業にしかなく、日本が今後も経済成長を続けるためには軍事(戦争)を成長戦略の根幹に据えるべきだと告げられたとしたら、どうか?(ちなみにこの例題はすでに現実のものです。例えば、経団連による「防衛産業政策の実行に向けた提言」(2015年9月15日)など)
「私はそこまでして生き延びようとは思わない。恥を知れ!」とマロリーなら言い切ることができると思います。僕たちがマロリーの決断から学ぶことができるものはまさにこうした勇気です。
もちろん何度も言うように、マロリーの決断が世界を覆いつくすと世界は破滅します(自殺の連鎖)。が、マロリーの決断が無い世界もまた破滅しているに等しい。この葛藤が解消されることはこの先も決してないと思います。しかしながら、この葛藤そのものをなかったことにするという解決は絶対にあってはならない。これがこの映画の伝えたかったメッセージだと思います。