progress, not perfection

日本のスピリチュアル系はなぜ、かくもネトウヨ化するのかを考えます。オカルト関連の話題中心。

映画"Avengers: Endgame" (2019) 『アベンジャーズ/エンドゲーム』感想

宇宙の生命の半数を絶滅させたサノスを、人類の傲慢さを批判する極左エコ・テロリストとみなす説(例えば町山智浩さん(映画ムダ話83)は、ピーター・シンガー倫理学などを持ち出してこのような観点からサノスの「正義」を論じていた)もありますが、今作『エンドゲーム』の結末まですべてを見終えた今となっては、サノスには左翼的なところなど何一つないのがはっきり分かりました。サノスが幾度となく口にする台詞"I am inevitable"(私は必然だ)の通り、彼は、この変えられない現実そのものの代名詞です。

「半数を犠牲にすることで、半数の幸福を実現する」というサノスが掲げる主張は、世界の不均衡をただすために実現するべき大義などではなく、今まさにここにある醜悪な現実に対する追認そのものです。

 

現代社会において、持てる者の幸福は、持たざる者に対する簒奪や搾取の結果得られるものにすぎません。私が今得ているこの幸福は、私以外の誰かの不幸(犠牲)と表裏一体の関係にあるということ。こうした関係はあらゆる領域において構造として見出されます。先進国/発展途上国、男性/女性、人間/動物(家畜)、マジョリティ/マイノリティ、正社員/非正規労働者、等々。

自分が得ている幸福が他者の不幸の上に成り立っているという現実を見て見ぬふりする者もいれば、欺瞞的な正当化を図る者もおり(勝者は努力によってフェアな競争に打ち勝ち正当に幸福を得たのであり、敗者の不幸は自己責任によるものである云々)、そもそも無知のまますべてをやり過ごすことのできる文字通り「幸福な」者もいます。

サノスがやったことは、半数を殺し半数を生き残らせることで、この現実を誰もが認識できる形でシンプルに可視化したこと。その上で、この現実を受け入れろ、この現実を変えることなどできるものかと豪語してみせた。"I am inevitable"(私は必然だ、現実は変えられない)と。

 

図式的に整理するなら、こうしたサノスの立場に対して抵抗するということは、この現実を変えようとすることを意味します。

クライマックスの最終決戦を前にして、サノスはアベンジャーズに対してこう言い放ちます。

 

Thanos:

I'm thankful because now I know what i must do.

I will shred this universe down to its last atom and then with the stones you've collected for me, create a new one teeming with life but knows not what it has lost but only what it has been given.

A grateful universe.

 

Captain America:

Born out of blood.

 

Thanos: 

They'll never know it because you won't be alive to tell them.

 

(適当和訳)

サノス:私が何をなすべきか教えてくれて、お前たちには感謝しているよ。

私は今からこの宇宙を塵に返してやろう。そして、お前たちが私のために集めたインフィニティ・ストーンを使って、新しい宇宙を創るのだ。その宇宙を満たす生命たちは、もはや失われたものについては何も知らない。ただ、与えられたものだけを知っている。

感謝に満ちた宇宙だ。

 

キャプテン・アメリカ

血まみれの虐殺から生まれた宇宙だ。

 

サノス:

彼らはそれを決して知ることはない。なぜならお前たちは彼らに伝える前に今ここで死ぬからだ。 

 要するに、サノスにとって、サノス(=この現実)に抗う者とは、犠牲となり失われた者たちのことを記憶している者のこと。すなわち、この現実におけるあらゆる幸福は、すべて犠牲の上に成り立っているということを認識し、そこから目を逸らさない者たち。

こうした者たちは現実に対して抗うのであり、アベンジャーズもまたこの現実に対して抗うということ。 

 

 だが、この現実を変えることなど果たしてできるのだろうかと、アベンジャーズのヒーローたちは各々煩悶します。

例えば、

アイアンマン(トニー・スターク)の場合。

彼は、一度はサノスによってもたらされた秩序(=変えられない現実)を完全に受け入れ、幸福を享受します。最愛の妻と娘に囲まれた幸せな家庭生活をなんとしてでも守りたい、たとえこの幸福が多くの者たちの犠牲の上に成り立っているとしても、と。

トニーの立場は穏健派であり、彼はこの現実を完全否定することは決してありません。

キャプテン・アメリカたちによって協力を要請された時も、一度は協力を断ります。

その後、トニーは考えを改めて協力を申し出るものの、最優先事項として、「今ある生活を守ること」を決して譲りません。以下は、キャプテン・アメリカとの会話の中でのトニー(アイアンマン)の台詞。

Tony: We got a shot at getting these stones, but I gotta tell you my priority is to bring back what we lost? I hope, yes. Keep what i found? I have to, at all costs.

トニー: 我々の狙いはあの石を取り戻すこと。だが言っておくが、私のプライオリティ(最優先事項)は、死んだ者たちを生き返らせること、そして私の今の生活(=私が得たもの)を何としても守ることだ。

 

 「大義vs個人の幸福」という主題は幾度となくトニーという人物を通じて描かれます。

トニーはスペースストーンを得るために1970年代にタイムリープした際に軍事基地内で父のハワードと偶然出会い、他人を装って会話を交わします。その時にも「大義vs生活保守」というこの主題が反復されます。

妻の妊娠(お腹の子供はトニー本人)が判明したばかりのハワードとトニーとの会話。

Tony: I have a little girl.

Howard: A girl would be nice. Less of a chance she'd turn out exactly like me.

Tony: What'd be so awful about that?

Howard: Let's just say that the greater good has rarely outweighted my own self-interests.

 大義(the greater good= より大きな善)のために今ある幸福(my own self-interests=自分自身の利益) を犠牲にする必要はないのだ、と語る父ハワード。

これらの場面(を通じて描かれる主題)が、この映画のクライマックスシーンであるトニーの自己犠牲=死の場面の伏線となっています。

 

 

あるいはネビュラNebulaの場合。

僕個人的に最も泣けてしまったシーンが、ネビュラ(=過去世界のネビュラ)が死ぬ場面。

映画の最終盤、スパイとして未来世界に潜入したネビュラ(過去世界)は内部から手引きをしてサノス(過去世界)の軍勢をアベンジャーズの本部へと導きます。そしてサノスの命令を受けてガントレットを奪取、サノスの元へ戻ろうとするところで、彼女自身の未来の姿と対面します。そこで交わされるやりとりがあまりにも悲しい。

"You can change"(あなたは変われる)

という、未来世界のネビュラの呼びかけに対して、

"He won't let me"(彼がそれを許さないわ)

と過去世界のネビュラは応え、死にます。彼女は、あまりにも強固すぎる現実(He=サノス=inevitableな、変えられない現実)を前にして、何も信じることができずに倒れ、死んで行きました。

 

などなど、感想は尽きません。

この映画は、この世界は変えられるとは決して言っていないし、変えられないとも言っていません。しかし、ヒーロー映画として一つの希望を伝えてくれたような気がします。

綺麗事や理想を語ることが忌み嫌われる、ドナルド・トランプ流の「本音」至上主義のこの時代にあって、映画はここまでやれるのだということ。

Alt-rightネトウヨ)たちから性差別的な総攻撃を受けているキャプテン・マーベル役のブリー・ラーソンですが、この映画の最終決戦の一コマとして、彼女が仲間の女性ヒーローたちだけで固められた女性の小隊を率いてサノスの軍勢に対して突っ込んでゆく確信犯的なシーンには胸のすくような爽快感がありました。

一番好きなシーンは、ソーが過去のアスガルドへ帰還し、母のFriggaと束の間の再会を果たすところです。

 

感想ここまで

映画 "Under the silver lake"(2018) 『アンダー・ザ・シルバーレイク』感想

この映画から伝わったメッセージとして、一度反省を経た上での現世肯定、この世で生きることの素晴らしさを発見し直すというものがありました。ラスト近く、看板に書かれたメッセージがそのまんま。(「I can see clearly now + Hamburgers are love(ハンバーガーがこんなにも好きだと今となってはっきり分かった)」)

主人公は、自分が信じる唯一の真正なもの(彼にとってはカート・コバーン)が、軽蔑に値する商業主義的なフェイク(=ハンバーガー的なもの)に過ぎなかったことを知り、致命的なアイデンティティ危機に陥るわけですが(もちろん作曲家殺しの一連のシーン自体が彼の妄想である可能性も大ですが。その場合、彼は自分自身で権威の切り崩しをやったことになります)あるシーンを通じて彼はそれを乗り越えることを学んだようにみえます。

この映画の最大のオチは、最後部(ちょうど2時間過ぎたあたり)、サムとサラがビデオ電話で会話をするシーンにあると思います。この会話の中で、サムが"Same here.(こっちも同じだよ)"と返す部分。これこそがこの映画のオチではないかと(詳細は後述)。サムは、サラの境遇と自身の境遇を重ね合わせることにより、気付きを得ます。

以下はそのシーンより。

大富豪セヴァンスの3人の花嫁のうちの一人として、死を偽装し、地下深くの墓場シェルター(「アセンションの部屋」)へと封印されることになったサラの真意をサムは確かめようとします。

Sam: I just wanted to know what happened to you.You really wanna be down there?

Sarah: ....Yeah.

Sam: You're gonna die down there. Is that what you want?

中略

Sarah: Do you think I've made a mistake coming down here?

Sam: Maybe.

Sarah: Well, there is no getting out now, so I may as well make the best of it.

Sam: Yeah. ...Same here.

 

(適当和訳)

サム:ただ君に何が起こったのか知りたかったんだ。君は本当にそこに行きたかったの?

サラ:...うん。

サム:君はそこで死ぬんだよ。それが君の望みなの?

中略

サラ:私がここに降りて来たのは間違いだったと思う?

サム:たぶん。

サラ:もうここから出られないんだから、思いっきり満喫したほうがマシね。

サム:うん。こっちも同じだよ(僕もそうするよ)。

 このビデオ電話による会話シーンがなぜこれほどまでに感動的なのかというと、要するに、サラが自らの意思によって地下の墓場へ降りて行ったのとまったく同じように、僕たち自身の魂もまた、自らの意思でこの地上=地球へと降りてきたのかもしれないとふと気づかせてくれるからです。

サラの境遇と自らの境遇を重ね合わせることで、サムはひとつの「気づき」を得たというのがこのシーンだと思います。

この地下の墓場は、「アセンションの部屋 the Ascension Chamber」と名付けられており、大富豪が魂のアセンション(次元上昇)のための準備期間を過ごすための施設であるとされていますが、その実態は、滑稽なまでに世俗的で物質主義的な快楽追求のための設備にあふれています。これは事実上のディセンション(次元降下)なわけです。

ところで、スピリチュアリズムの教科書的理解として、僕たち人間の魂もまた、全能・無限の類魂世界(魂のふるさと)から、制約に満ちた有限のこの地上世界へとディセンドして生まれ落ちるわけです。

この地上という物質的な世界において、有限性とはいかなるものかを経験し学びを得るために、魂は自らの意思で降りてくるわけです。そうした経緯の記憶をふと思い出させてくれるのが上のシーンだと思います。

もちろん、この作品はスピリチュアル系にハマるセレブたちをネタにして笑うような調子に満ちているので、このスピリチュアル的解釈を真顔で語るつもりはないですが、それなりにオチとして成立しているように思います。一応ここはスピ系ブログなので書いてみました。

 

以上

 

Netflix映画"Bird Box" (2018)『バード・ボックス』感想

原作小説に基づく作品なので、映画のストーリーにあれこれ文句を言っても仕方ないのですが、最大の謎である「それ」の正体が明かされないままエンディングを迎えるのは、この手のサスペンス系の作品としては肩透かしな印象が残るのも仕方ないと思います。あれこれと必死に推理・予想しながら最後まで観たものの、宙吊り状態のままエンドロールを迎えた時の徒労感…。

一応、「それ」の正体のおぼろげな内容は作品中の登場人物の台詞などで示唆されてはいますが、それがあまりにもオーソドックスなありふれた内容にすぎるので、さすがにこれはただの誤誘導に過ぎず、予想を裏切る真の正体が後々になって明かされるはずだと期待して鑑賞する人もいると思います。その期待を裏切られたという意味での肩透かし感はありました。

とりあえず、この作品の良かった点を挙げてみます。

 

 1."Surviving is not living"(生き延びることと生きることは違う)の主題

映画の後半(1時間30分過ぎた辺り)、マロリーとトムが口論するシーンより。

トムは2人の子供たちに対して、自分が幼かった頃の話(夏になると花や蝶々に囲まれて他の子供たちと湖畔で過ごしたこと、そして大きなナラの木に登ったこと)を語って聞かせますが、これに対してマロリーは激怒します。生き残るのが精一杯の今となっては、子供たちに実現不可能な夢物語を語って聞かせることは害悪でしかなく、生き残りにとって支障にすらなり得ると。

Malorie: Because they'll never climb trees, they are never gonna make new friends.Why make them believe that?

Tom: They have to believe in something. What is this for if they don't have anything to believe in? 

M: So that they survive!

T: Surviving is not living!

M: They're gonna die if they listen to you!

(適当和訳)

マロリー:この先彼らは木に登ることだってないし、新しい友達を作ることもないのよ。どうして彼らにそんなことを信じさせるの?

トム:彼らは何かを信じる必要があるんだよ。何も信じるものがなければ、何のために生きているんだ?

マロリー:生き延びるためよ!

トム:生き延びることと生きることは違うんだよ!

マロリー:あなたの言うことを聞いていたら、彼らは死んでしまうわ!

 

ここで繰り広げられている価値観の対立は、どちらか一方が正しいと客観的に優劣をつけられるたぐいのものではなく、両者の立場の調停も困難です。

・マロリーの論理:生き延びることこそが至上の価値を持つという考え。

・トムの論理:たんに生き延びることに何の価値もないという考え。人はパンのみにて生きるにあらず。善く生きてこそ人間である。

この価値観の対立は、一人の個人の内部でも起こり得るものです。

たとえば、自分が生き残るためには他人を犠牲にしても「仕方ない」という正当化をはかる場合など、内面的な葛藤が生じるのは誰でも経験があることだと思います。

 

この葛藤は、映画の中でもしっかりと描かれています。

それはマロリーが子供二人と急流下りをするシーンの後半部分です。

急流下りの最後の難関は岩場が多く川の蛇行も激しいので、これを越えるためには子供二人のうち一人が目隠しを外してボートの進路先を見なくてはならない。つまり、「皆が生き延びるために、誰か一人が犠牲にならなくてはならない」という究極の選択的状況に彼女たちは遭遇します。

ここでマロリーは葛藤します。実子である男の子が生き残るために、血の繋がっていない女の子を犠牲にすべきか否か。マロリーの表情を察した女の子は、自ら、自分が犠牲になることを申し出ます。

しかし、マロリーはこの女の子による犠牲の申し出を拒絶します。それに代えてマロリーが下した決断は、「誰も目隠しを外さない」こと。つまり、誰も犠牲にならないということです。

はっきり言って、この決断は無謀すぎます。ボートの進路を誰も見ないということが意味するのは、急流に飲まれて全員が死ぬ可能性が高いということです。

マロリーは死の可能性を承知の上で、決断に踏み切りました。「誰かを犠牲にして生き延びるくらいなら、いっそ生き延びないことを私は選ぶ」という価値観(これはトムの価値観を純粋化したものです)へのシフトがここで起こっています。

男の子が生き延びるためには女の子を犠牲にしても「仕方ない」という価値観から、女の子を犠牲にしてまで男の子が生き残るべきではないという価値観へ。

その後ボートは転覆するものの、マロリーと二人の子供は奇跡的に全員助かりますが、これはたまたま運が良かっただけです。あくまで重要なのは、あのシーンでマロリーが死を選んだこと。誰かを犠牲にしてまで生き延びたくはないと願ったという事実。

「いかにも」なトロッコ問題的シーンではありますが、映画の制作者が伝えたかったメッセージというのは明らかです。

 

ところで「誰かを犠牲にしてまで生き延びるべきではない」という価値観は言うまでもなく非常に危険でもあります。それは人を自殺(生きることの否定)へといざなうものでもあるからです。

ここで思い当たるのが、この映画において、「それ」を見てしまった者は自殺するという設定です。

つまり、「それ」の正体とは、実はこの自殺の論理(誰かを殺して生き延びるくらいなら自分が死んだ方がマシだ)そのものなのではないか?

この思想に憑かれた人は自殺を選ぶ。これがこの作品の裏メッセージなのではないかということです。

 

生き残ることをめぐるマロリーの論理とトムの論理との葛藤。

この作品が描いたのは、要するに、トムの論理(他者を犠牲にして生き残るくらいなら、いっそ自死してもかまわないという価値観)が世界を覆いつくし破滅に追いやる光景です。人々はバタバタと自殺していきます。

この破滅(自殺の連鎖)を唯一免れることができたのは、盲学校に集まる、目の見えない人たちの集団でした。このメタファーが意味するのは、そもそも最初から「見るな」ということ、すなわち、世界の破滅を生き延びたければ、自己と他者をめぐる思想的な葛藤など断じて抱えるなということです。下世話な言い方をすれば、文学・哲学なんてものに親しんで内面的な葛藤を抱えてしまうと普通に生きられなくなるぞ、生き残るためには何の役にも立たないどころか有害ですらある人文系科目など学校で教えなくてよろしい、ということです。

言うまでもなくこれらはあくまで皮肉です。生き残るためには何の役にも立たない文学や哲学やアートなどの人文系が急激に衰退していく今日的状況にあって、この映画はあくまでトムの論理の擁護者であると思います。

つまり、急流下りのあのシーン、誰も犠牲にしない、誰かを犠牲にするくらいなら心中した方がマシだとマロリーが決断するシーン。この映画のクライマックスはまさにここです。マロリーはあえて死を選び取りました。

自分が生き延びるためには他に犠牲を強いても「仕方ない」という正当化がかつてないほどにはびこっているのが、今という時代です。生き残るためには「仕方ない」の論理で正当化される最大の暴力が戦争です。

生存至上主義的な「仕方ない」の御旗のもとにあらゆる不正が正当化されてゆく。この潮流への異議申し立てとして、マロリーの決断があると思います。

こんな時マロリーならどう決断するだろうか?と一つ例題を考えるなら、もし日本の産業資本の生き残る道が軍需産業にしかなく、日本が今後も経済成長を続けるためには軍事(戦争)を成長戦略の根幹に据えるべきだと告げられたとしたら、どうか?(ちなみにこの例題はすでに現実のものです。例えば、経団連による「防衛産業政策の実行に向けた提言」(2015年9月15日)など)

「私はそこまでして生き延びようとは思わない。恥を知れ!」とマロリーなら言い切ることができると思います。僕たちがマロリーの決断から学ぶことができるものはまさにこうした勇気です。

もちろん何度も言うように、マロリーの決断が世界を覆いつくすと世界は破滅します(自殺の連鎖)。が、マロリーの決断が無い世界もまた破滅しているに等しい。この葛藤が解消されることはこの先も決してないと思います。しかしながら、この葛藤そのものをなかったことにするという解決は絶対にあってはならない。これがこの映画の伝えたかったメッセージだと思います。

 

 

 

映画"Hereditary" (2018) 『ヘレディタリー』感想

オカルトホラーとしてまぎれもなく歴史に残る傑作だと思います。

オカルト好きにはたまらない一作。逆に言えば、オカルト色が強すぎて抵抗のある人もいそう。

前半60分はオカルト要素が前面には出てこない見せ方をしていて、これはこれで非常にスリリングで、オカルト抜きのホラーとして成立していた。後半はどっぷりオカルト。

オカルト抜きの解釈、すなわち結局すべてが登場人物(精神病者としてのアニーあるいはピーター)の妄想にすぎないという解釈を下す余地もありますが、アリ・アスター監督自身はインタビューでこれについて否定的に述べているそうです。曰く、この作品のエンディングはリテラルだ(=文字通りだ、つまりメタファーではないという意味)と。

物語をネタバレ有り3行でまとめるなら、
悪魔崇拝結社のリーダー格である祖母が、自らの血統(子孫たち)を犠牲として差し出すことにより悪魔を降臨させようとした話。結末:悪魔の降臨は成功する。

ちなみに、富を得るために悪魔と契約を結ぶというやり方について、オカルト的な関心から言えば、日本におけるいわゆる「憑き物筋」(=子々孫々の繁栄のために何らかの代償を支払い「ある存在」と契約を交わした一族)も似たような発想に基づいていると思います。

日本における憑き物筋系の実話を僕もいくつか聞いたことがあります。なので、この映画の背景にあるオカルト的な設定は必ずしも完全なフィクションだとは僕は思いません。こういった家族の悲劇は実際にあります。(ただ、憑き物筋について語る時には、これらは日本社会における差別の歴史と不可分であったことを忘れてはなりません。しかも差別は過去のものではなく、現在進行系で今もあります。興味本位で語るにしても必ず肝に命じておかなければならないことです。)

以下は気になった細部のメモ。

 

1. 祖母の遺品である"INVOCATIONS(召喚)"というタイトルの本に書かれていた内容など

King Paimon (God of Mischief):

When successfully invoked, King Paimon will possess the most vulnerable host. Only when the ritual is complete will King Paimon be locked into his ordained host. Once locked in, a new ritual is required to unlock the possession.

The Goetia itself makes no mention of King Paimon's face, while other documentation describes him as having a woman's face (while referring to him using strictly masculine pronouns). As a result the sexes of the hosts have varied, but the most successful incarnations have been with men, and it is documented that King Paimon has become livid and vengeful when offered a female host, For these reasons, it is imperative to remember that King Paimon is a male, thus covetous of a male human body.

 

(適当和訳)

ペイモン(パイモン)王 害毒の王

召喚に成功すると、ペイモン王はもっとも脆弱なホスト(=宿主)に憑依する。儀式が完了してはじめて、ペイモン王は定められたホストの内部に入り込む。憑依を解除するためには、新しく儀式を行うことが必要となる。

ゴエティア(=ある古文書)はペイモン王の顔には言及していないが、別の文書は王が女性の顔を持っていると記述している(しかし王のことを厳密に男性名詞として受けて記述している)。

そのためホストの性別はこれまで様々だったが、憑依がもっとも成功したのは男性ホストの場合であり、女性のホストを用意した場合には、王はひどく怒り、障りを起こすことがあった。

これらの理由により、ペイモン王は男性であり、男性の身体を欲しがるということを必ず覚えておくべきである。

この本の別のページには、うず高く積まれた金銀財宝の頂で笑みを浮かべる裸の人間が描かれた挿し絵に、次のようなキャプションが付けられています。

Riches to the Conjurer 

召喚者には富が与えられる

要は、ペイモン王を召喚すれば、召喚者たち(ペイモン王のfollowerたち)に対して「富Riches」が約束されるということらしいです。

 

が、この「富」が一体どのようなものを指すのかは明確には語られていません。

はたから見ると、この祖母はすでに子孫を次々と死へ追いやり血統を根絶やしにして家族を破滅させており、現世的な幸福としての「富」など、もはや眼中に無いように見えます。

彼らが欲する「富」とは、果たして世俗的なものを指すのか(教団の繁栄、あるいはGraham家子孫代々の繁栄)、あるいはもっと彼岸的なものを指すのか(「魂の救済」のようなもの)、よく分かりません。

祖母が娘に宛てて残した手紙にも、彼女たちが得る「報酬rewards」について書かれていますが、具体的ではありません。

My darling, dear, beautiful Annie,

Forgive me all the things I could not tell you. Please don't hate me and try not to despair your losses. You will see in the end  that  they were worth it. Our sacrifice will pale next to the rewards. Love, Mommy.

愛しいアニーへ

隠しごとばかりしていてごめんなさい。でも、私のことを憎まないで。そしてあなたが何を失っても絶望しないで。最後には、その価値があったと分かるでしょう。私たちの払う犠牲は、与えられる報酬の前では色あせてしまうでしょう。愛をこめて、ママより

 

 ラストシーンでジョアン(教団の女性幹部)がピーターに向けてやや具体的に語っていますが、それでもなお、此岸的な富とも彼岸的な富ともどちらとも解釈できるような言い方です(ちなみに、ジョアンはピーターに向かって「チャーリー」と呼びかけています。要はそういうことのようです)。

Charlie, You are alright now.You are Paimon.One of the eight kings of Hell.We have looked to the Northwest and called you in.We've collected your first female body and give you now this healthy male host.(中略...この部分は非常に冒涜的な内容で、書き起こすと障り(心霊的な意味で)があるようなので自粛します…)Give us your knowledge of all secret things.Bring us honor, wealth and good familiars.Bind all men to our will as we have bound ourselves for now and ever to yours.

 

チャーリー、あなたはもう大丈夫。あなたはペイモン王。地獄の8人の王のうちの一人。我々は北西に向かってあなたをお呼びしました。我々はあなたの初夜のために(首のない)女性の身体を集めました。そしてあなたにこの健康的な男性ホストを捧げます。(中略)我々にこの世のすべての秘密に関するあなたの知識を与えてください。そして我々に名声と富と良い同類をもたらしてください。我々があなたに対して今後一切従うように、すべての人間が我々の意思に従うようにしてください。

 彼らが悪魔と契約してまで欲する「富」とは要するに、悪魔とともにこの世(自然も社会も)を支配することという感じのニュアンスでしょうか。古典的な「世界征服の野望」という感じ。

 

2. ペイモン王=被害者説について思うこと

この映画に関する様々な感想を読んでいて僕が一番興味深く感じたことについて紹介します。

Dan Stubbs氏がNMEに書いているこちらの感想より

Hereditary: all the big questions answered

簡単に意訳込みで要約すると、

少女チャーリー(=ペイモン王)がそこまで邪悪に描かれていないのはなぜなんだろうか。たしかに、鳩の首を切り落とすなど不気味な行動が目立つが、基本はコミュニケーションを取るのが苦手な内向的で物静かな少女なわけです。周囲に対して害悪を加えてはいないし、そういった悪意も持ち合わせていないように見えるわけです。

実際のところ、この映画においては一体誰が「真の悪者」なんだろうか。邪悪なのは誰か。

地獄の王ペイモンは結局のところ人間たちによって利用されているだけじゃないのか。彼は「蘇らせてくれ、地上に召喚してくれ」と自ら頼んだわけじゃない。彼は地上に降り立っても全然嬉しそうではなくむしろ非常に困惑した表情を浮かべているのではないか。

これに関して、ピーター役を演じた俳優のAlex Wolff氏が非常に面白いコメントを残しており、彼が言うには

「チャーリーは悪魔だよね。でも、僕にはとても興味深く感じられるんだけど、監督のアリ・アスターは、必ずしもチャーリーが邪悪だとは限らないというアプローチを取っているんだ。彼女はこの世界に生まれ落ちて実際は非常に怯えている。自分がこの世界には属していないと感じている。これって、この世界から疎外された人が精神的な障害を抱えてしまっていることと非常に似通っているように思えるよ。」

Wolff氏の言うことはもっともで、邪悪なのはもっぱら人間たちです。富を得るために悪魔を召喚しようとしている祖母こそが悪魔です。

 

以上のような内容です。

そんなことを思ってこの映画を見返すと、悪魔と呼ばれる少女チャーリーの不器用な生き方が不憫に思えて仕方ないし、ラストシーンの少年ピーター(に憑依したペイモン)もまた非常に悲しそうな目をしていたなあと。それに比べて、富だ名誉だと強欲にまみれ、脂ぎった汚い裸体をさらけ出して恥も知らない教団信者たちの醜さといったら。

この映画はオカルト色全開の映画だと冒頭で述べたものの、ある意味、これは結局ヒトコワ系(オカルト現象よりも人間の方が怖い)のオチだったのかもしれません。

最後に、母親アニー役を演じたトニ・コレット(Toni Collette)は本当に素晴らしかった。圧倒的なすさまじい演技。彼女がいたからこその傑作だったと思います。

映画 リメンバー・ミー (原題"Coco") 感想

1. 作品紹介

音楽を愛する家出少年が死後の世界に迷い込み、やがて「成長」を遂げて生者の世界へ帰還するという話。

リメンバー・ミー』という邦題そのままの、今は亡き人も記憶の中ではずっと生き続けることができるという主題が、この作品では一体どのように批評されるのかというのが一つの見どころ。

この作品では、「音楽」対「家族」というモチーフが繰り返し登場します。

音楽のために家族を捨てたと伝えられる高祖父、家族のために音楽を禁止するリヴェラ一家、そして音楽のために家出した主人公の少年ミゲル等々。

かつては音楽を愛していたが、娘のココが生まれた時に音楽を捨てた高祖母イメルダのセリフにこういう一節があります。

I wanted to put down roots.
私は根を下ろしたかったの。

 根を下ろす=地上の重力に従う(受け入れる)タイプの人間と、地上の重力から離脱しようとするタイプの人間との二種類の魂がこの作品では描かれます。

前者は「家族」を愛するがゆえに重力を引き受け、後者は「音楽」を愛するがゆえに重力に抗います。

音楽を愛し家出した主人公ミゲル(重力離脱派)が果たして最終的にどういう態度を取るのかという点も見どころ。

 2017年公開。日本公開2018年。

2. ストーリーあらすじ(ネタバレ)

詳しいあらすじはwikipediaに載ってるので、簡単にざっと。

 

主人公ミゲルの今は亡き高祖父(=ひいひいおじいちゃん great-great grandfather)が音楽のために妻子を捨てて蒸発した経緯があるため、リヴェラ家は代々、音楽を呪い(curse)とみなしていたが、音楽を愛し、今は亡き偉大な歌手デラクルス(de la Cruz)に憧れるミゲルは、そんな環境に耐えられずついに家出する。

高祖父の写真(顔の部分は破り取られている)に写ったギターが、デラクルスのギターとまったく同じものであることに気付いたミゲルは、デラクルスこそ自分の高祖父であると信じるようになっていた。

その後、デラクルス記念館に侵入した際、ミゲルは突如として、あちら側の世界(死者の世界 the Land of the Dead)へとフェイズシフトして迷い込んでしまう。

死者の世界で自分の先祖たちと出会ったミゲルだったが、夜明けまでに元の世界に戻らなければミゲルはそのまま死者となってしまうという。

死者の世界から生者の世界へ戻るには、自分の血縁者から祝福(blessing)を受ける必要があるが、高祖母イメルダはミゲルが音楽を愛することを許さず、条件付きの祝福(二度と音楽を続けてはならないという条件)を授けようとする。音楽をあきらめられないミゲルは祝福を拒み、逃走する。

デラクルスこそが自分の高祖父であり理解者であると信じて疑わないミゲルはデラクルスに会うため、デラクルスの知人であるヘクトルという人物の助けを借りる。

デラクルスと出会い、音楽の才能を認められたミゲルは、生者の世界へ帰還するために高祖父デラクルスの祝福を受けようとするが、その場に現れたヘクトルの口から突然、衝撃の事実を告げられる。

デラクルスの歌う伝説の名曲はすべてヘクトルが作曲したもので、デラクルスは曲を盗んだのだという。さらに衝撃的なことに、デラクルスとヘクトルはかつてコンビを組んで巡業していた仲間同士(歌唱担当のデラクルスと、作曲担当のヘクトル)だったが、ヘクトルが故郷に残した娘の元に帰るために音楽をやめると宣言したために、歌うべき楽曲を失うことを恐れたデラクルスがヘクトルを殺害し、ヘクトルの作った曲をすべて奪ったのだった。

真実を明かされたデラクルスは一転してミゲルへの祝福を拒み、彼を監禁する。

監禁中、ヘクトルとの会話の中で、故郷に残したまま二度と会うことができなかったヘクトルの娘の名前が「ココ(Coco)」であることを知ったミゲルは、ヘクトルこそが自分の高祖父であることを知る。

その後は、ミゲルの救出にやってきた高祖母イメルダたち祖先チームとともに、悪役デラクルスを退治する。

が、高祖父ヘクトルの魂は消滅に瀕していた。なぜなら、地上でヘクトルのことを覚えている唯一の存在である娘のココが、父ヘクトルのことを完全に忘却しかけていたから。

祝福を受けたミゲルは生者の世界へ帰還し、消えゆく高祖父ヘクトルの魂を救うために、曾祖母ココの元へ急ぐ。

ミゲルは曾祖母ココに対し、かつてヘクトルが愛する娘に歌いかけた曲「リメンバー・ミー」を高祖父ヘクトルのギターで弾き語ってみせる。ココは父の記憶を取り戻し、ミゲルと一緒に歌を口ずさむ。

そんな感じで一応ハッピーエンド。

 

3. 感想

「記憶されることによって人は生き続ける」という、ありがちな主題に対して、自分のことを記憶してくれる家族も友人もいない人の立場はどうなるの?という素朴な疑問は誰もが持つと思うのですが、それに対してこの作品がどういった気の利いたメッセージを返してくれるかと期待して鑑賞したのですが、案外そっけないものでした。

 

この作品の主題はあくまで家族の素晴らしさを素朴に訴えることが中心だったようです。同じディズニー/ピクサーの『アーロと少年』(原題"The Good Dinosaur" 2015年)のラストも同じように素朴な「家族推し」だったので、主題の路線は一貫していると言えるのかもしれませんが。

 

リメンバー・ミー』の作品世界の設定としては、誰からも記憶されることのない者は、消失し(fade)、「最後の死(the final death)」を迎えるということになっており、ヘクトルに連れられてミゲルが訪れた「帰るべき家族のいない no family to go home to」人々の集うエリアで、ヘクトルの友人チーチ(Cheech)がファイナル・デスを迎えるシーンは、この作品の中で最も興味深かったです。

Hector: Our memories, they have to be passed down by those who knew us in life in the stories they tell about us.
But there is no one left alive to pass down Cheech's stories.
It happens to everyone eventually.

ヘクトル:僕達の記憶っていうものは、生前僕達のことを知っていた人々によって、僕達について彼らが語る物語を通じて伝えられなければならないんだ。
チーチの物語を伝える人は地上からもう誰もいなくなってしまったんだ。
それは結局、誰にでも起こることさ。

  

上に引用したのは、チーチが消失した後、ヘクトルがミゲルに対して言ったセリフですが、最後の一節が強烈です。「それ(誰からも忘却され、魂ごと消失してしまうこと)は結局、誰にでも起こることさ」。


これは、記憶によって人は生き続けるというありがちな主題を全否定するだけの力を秘めた一節だと思います。前述した、地上の重力を受け入れようとする人々と、重力から離脱しようとする人々との二つのタイプの魂が存在するという話に引きつけて言えば、この一節が意味するのは、最終的には(eventually)、すべての魂が重力を離脱するのだということです。家族によって記憶されることは、たんなる一時的な引き止め=慰みに過ぎないと告げているに等しい。

要するに、重力がもたらす愛着や未練から距離を置き、ファイナル・デスを迎えることこそが、魂の進むべき方向だということです。魂のアセンション(Ascension)と呼ばれる事態はまさにそういった解脱のことです
その意味で、チーチは地上の重力を振り切ってアセンションを見事に成し遂げたのです。チーチ消失シーンは、いかにも寂しく惨めな印象を与えるように描かれてはいますが、これは作り手による偏見です。地上の重力に抗って、自由を勝ち取ったチーチこそ僕達の模範です。

リメンバー・ミー』におけるチーチの消失シーンは、『カンフーパンダ』(原題"Kung Fu Panda" 2008年)伝説の名シーンとして名高いウーグウェイ導師のアセンション・シーンに匹敵する名シーンだと思いました。チーチ・アセンズ。

アセンションの時が訪れたのを悟ったウーグウェイ導師は、弟子に対して「You must continue your journey without me.(私抜きで、君は旅を続けなければならない)」と言い残し、風に舞う桃の花びらとなって消失していきます。有名な"Oogway ascends"のシーンです。)

 

 

 

残念なことに、この作品では最終的に、音楽(重力離脱のモチーフ)と家族(重力引受けのモチーフ)との緊張関係が取っ払われ、音楽が「家族のための音楽」という形に押し込められてしまいます。それは次のようなセリフに顕著に表れています。

Hector: I didn't write "Remember Me" for the world. I wrote it for Coco.

ヘクトル:僕は『リメンバー・ミー』を世界のために書いたんじゃない。ココのために書いたんだ。

 当初は地上の重力に抗う魂の営みを象徴するものであった「音楽」というものが、軽薄な殺人者デラクルスとともに、単純な悪役として認定されてしまいます。音楽は、重力の影響下にとどまり、家族に奉仕する限りでその存在を認められるにすぎません。

この作品が最終的に掲げるメッセージは、保守的です。この作品は、地上の重力を引き受けることを肯定します。普遍性を象徴していた「音楽」のモチーフがこてんぱんに叩かれ、「家族」という特殊性に奉仕する地位に貶められてしまいました。

 

というわけで、結論。家族の絆の大切さを訴える素朴なメッセージには大いに感動したものの、家族とは無縁な境地で本当の自由を勝ち取った、チーチのファイナル・デスこそが、魂が最終的に目指すべきところだという裏メッセージを受け取って満足することにします。

最近のディズニーの「家族」推しを批判する気は全然ないのですが、教育勅語を幼稚園児に唱えさせるようなレベルで「伝統的家族の価値の復権」のようなことが叫ばれたり、「家族は、互いに助け合わなければならない」などという条文が憲法改正案に盛り込まれるような現在のこの日本社会においては、ナイーブなまでに家族の価値を称揚してみせる作品がベタに受け取られてしまいそうで心配です。

リメンバー・ミー』名作でした。面白かったです。

以上

 

ドラマ Ghost Wars Season01 感想

 紹介を兼ねた感想

「ゴースト・ウォーズ」というタイトルからイメージされるような、主人公がサイキック能力を駆使して悪霊と戦う冒険譚のような作品ではないです。

直球のオカルトものでありつつも、Syfyオリジナル作品というだけあって、quantum object(量子物体)だの、quantum fissure(量子亀裂)だの、dimension(次元)だの、phase(位相)だの、SFっぽい用語が会話の中で飛び交う感じ。

聖職者と科学者の間で神学や生命倫理をめぐる論争が勃発したり、「あの世の植民地化(to colonize Heaven)」という過激な思想が飛び出したり、霊魂と肉体の二元論というキリスト教的な主題をベースに、理想的な肉の器をバイオテクノロジカルに創造し、その肉の器を憑依先のホスト(宿主)として、すべての魂が一つの存在になるという「救済」のモチーフが出てきたりと、ただのオカルトものには収まりきらない興味深い要素が盛り込まれています。

ドラマとしては終始シリアスな展開で、登場人物もそれなりに次々と死んだり悪霊化したりと目まぐるしく、時々ホラー場面もあります。

大まかな物語としては、ある出来事をきっかけにして忌まわしい超常現象に襲われ始めた小さな港町を舞台にして(外部との交通・連絡を絶たれた孤立無援状態)、登場人物たちが各々生き残りをかけて行動する中で、それぞれの視点を通じて、この町をめぐる大きな謎の全体像が徐々に明らかになってくるという流れ。

一応、体裁上は、サイキック能力を持った青年ロマン(Roman)が物語の主人公ということにはなっているようですが、彼が物語の進行において果たす役割は限定的で、むしろ、彼を含む登場人物全員が主人公とも言える構成になっています。

とはいえ、登場人物が途中で死んだり、あるいは憑依されたりして、悪霊化してしまうこともあるので、ゾンビ系ジャンルの作品に似て、主人公の座が絶対的に保証されている登場人物は誰一人いないとも言えます。

個人的に、SCEIのホラーゲーム『SIREN』を思い出しました。各登場人物ごとに用意された独立した時系列シナリオが互いに交錯しあって物語全体の謎を徐々に照らし出していく感じ。

 

ストーリー結末メモ(ネタバレ含)

最終話(第13話)のラスト5分間で繰り出された超絶どんでん返し。

ストーリー結末のネタバレから入ると、最終的にビリーが自らの命を犠牲にすることで、すべての災いの根源であるアーティファクトをリフト(Death's Gate)のあちら側に送り返すことに成功し、ポートムーアの町は再び平和を取り戻したかに思われた。が、なんとアーティファクトは持ち去られていた。

犯人は、驚くべきことに、ロマン(主人公格のサイキック能力者で、町を救うために欠かせない貢献を果たした勇者)と、マギー(ロマンに対して友好的な亡霊。ダグの娘。)。二人が共謀して、アーティファクト返送計画を秘密裏に乗っ取っていたのだった。

マギーの霊魂は、まんまとダフネ(LambdaのCEO)の肉体に憑依し、ロマンと二人でポートムーアの町から船で脱出するところで物語は終わる。

 

…と、驚愕のラストだったわけですが、この展開は予想しようと思えば予想できたもので、充分な伏線なりロジックなりが事前に張り巡らされていたと思います。

ゴーストたちが実現を目論む「救済」計画(すべての霊魂が、互いの喜びも苦しみも共有できる単一の存在へと進化するために、例のポッドを使って理想的な「肉の器」を産み出し種を撒こうとする計画)に対して、ある種の共感を表明するマギーの台詞もあったし、マギーの「ヤバさ」は物語後半になればなるほど強調されていたように思います。

エピソード13でマギーが言い放った台詞:"This town belongs to us now, Roman"が決定的だったかな。この"us"が意味するのは、言うまでもなく、マギーもまたこの町を襲うゴーストたちの一味だということです。西洋のエクソシズムの文脈において、悪魔は必ず一人称「複数」を用いるというのは定説ですが(レギオン"the Legion"の存在)、マギーにしろ、エピソード11で憑依されたカーラにしろ、ついつい「私たち」と言ってしまう。

ロマンはというと、この小さな田舎町で唯一の身寄りである母を失い(過失による事故だったとはいえ、町によって殺されたのも同然)、自身も町中からよそ者扱いされていじめられた経緯を持つ以上、この町を裏切って捨てるだけの動機は十分にあった。マギーと利害が一致したから乗っただけの話。

二人は共犯とはいえ、ウェイト的には、マギーが正犯、ロマンが従犯くらいだと思えます。マギーの背後には多数のゴーストたちがいるので(「私たち」)、もはやマギー個人の意思で行動しているのではないんでしょうけど。

マギーとしては今後、第二、第三のポートムーアにアーティファクトを持ち込み、ロマンの能力を借りてデスズゲートを再び開き、ゴーストたちの「楽園」の実現を目指すことだと思います。

ラストシーンは、どこかの町で「笛吹き男」となって子供たちを誘い出すプリースト・ダンの姿。すでに第二のポートムーア候補の町がターゲットロックオンされ、ゴーストたちが解き放たれたようです。

 

ストーリー細部メモ

  • 舞台となるのは、アラスカ州ポートムーア(Port Moore)という小さな港町。主要産業は特にないが、Lambdaという企業の研究施設の所在地であるため過疎化を免れている。
  • この町を襲った地震。この地震をきっかけにして町中にパラノーマルな存在=亡霊spiritsが現れるようになる。
  • この地震の直接の原因となったと考えられるのが、Lambdaの研究施設で行われた、この地に伝わるアーティファクトである特別な隕石を加速器(particle accelerator)にかけるspool upテスト。
  • この隕石は一体何なのかという問いは、なぜこの地に研究施設が建造されたのかという問いにも関わる。港町PortMooreは、ley-lineがちょうど交差する地点の近くにあり、エネルギーが集中する位置にある。
  • 数世紀前、この地に隕石が落下し、町の人口の半数が死滅した。死因はインフルエンザによるものだと言われているが、どうやら実際には他の原因によるものらしい。
  • 隕石が衝突した際、エネルギーがリリースされ、二つの世界(two realms)の間を結ぶ裂け目(a rift)が一時的に現出した。もう一つの世界(the other side)からやってきた何かがこちらの世界に残された。それらが町の人々を殺した。
  • この町に古くから伝わる伝承「笛吹き男the whistleing man」はこの出来事を伝えていると考えられる。
  • 企業Lambdaがやろうとしていたのは、この隕石の衝突を、加速器を使って再現すること。裂け目を再び現出させる(re-open the rift)のが実験の目的。