progress, not perfection

日本のスピリチュアル系はなぜ、かくもネトウヨ化するのかを考えます。オカルト関連の話題中心。

映画 リメンバー・ミー (原題"Coco") 感想

1. 作品紹介

音楽を愛する家出少年が死後の世界に迷い込み、やがて「成長」を遂げて生者の世界へ帰還するという話。

リメンバー・ミー』という邦題そのままの、今は亡き人も記憶の中ではずっと生き続けることができるという主題が、この作品では一体どのように批評されるのかというのが一つの見どころ。

この作品では、「音楽」対「家族」というモチーフが繰り返し登場します。

音楽のために家族を捨てたと伝えられる高祖父、家族のために音楽を禁止するリヴェラ一家、そして音楽のために家出した主人公の少年ミゲル等々。

かつては音楽を愛していたが、娘のココが生まれた時に音楽を捨てた高祖母イメルダのセリフにこういう一節があります。

I wanted to put down roots.
私は根を下ろしたかったの。

 根を下ろす=地上の重力に従う(受け入れる)タイプの人間と、地上の重力から離脱しようとするタイプの人間との二種類の魂がこの作品では描かれます。

前者は「家族」を愛するがゆえに重力を引き受け、後者は「音楽」を愛するがゆえに重力に抗います。

音楽を愛し家出した主人公ミゲル(重力離脱派)が果たして最終的にどういう態度を取るのかという点も見どころ。

 2017年公開。日本公開2018年。

2. ストーリーあらすじ(ネタバレ)

詳しいあらすじはwikipediaに載ってるので、簡単にざっと。

 

主人公ミゲルの今は亡き高祖父(=ひいひいおじいちゃん great-great grandfather)が音楽のために妻子を捨てて蒸発した経緯があるため、リヴェラ家は代々、音楽を呪い(curse)とみなしていたが、音楽を愛し、今は亡き偉大な歌手デラクルス(de la Cruz)に憧れるミゲルは、そんな環境に耐えられずついに家出する。

高祖父の写真(顔の部分は破り取られている)に写ったギターが、デラクルスのギターとまったく同じものであることに気付いたミゲルは、デラクルスこそ自分の高祖父であると信じるようになっていた。

その後、デラクルス記念館に侵入した際、ミゲルは突如として、あちら側の世界(死者の世界 the Land of the Dead)へとフェイズシフトして迷い込んでしまう。

死者の世界で自分の先祖たちと出会ったミゲルだったが、夜明けまでに元の世界に戻らなければミゲルはそのまま死者となってしまうという。

死者の世界から生者の世界へ戻るには、自分の血縁者から祝福(blessing)を受ける必要があるが、高祖母イメルダはミゲルが音楽を愛することを許さず、条件付きの祝福(二度と音楽を続けてはならないという条件)を授けようとする。音楽をあきらめられないミゲルは祝福を拒み、逃走する。

デラクルスこそが自分の高祖父であり理解者であると信じて疑わないミゲルはデラクルスに会うため、デラクルスの知人であるヘクトルという人物の助けを借りる。

デラクルスと出会い、音楽の才能を認められたミゲルは、生者の世界へ帰還するために高祖父デラクルスの祝福を受けようとするが、その場に現れたヘクトルの口から突然、衝撃の事実を告げられる。

デラクルスの歌う伝説の名曲はすべてヘクトルが作曲したもので、デラクルスは曲を盗んだのだという。さらに衝撃的なことに、デラクルスとヘクトルはかつてコンビを組んで巡業していた仲間同士(歌唱担当のデラクルスと、作曲担当のヘクトル)だったが、ヘクトルが故郷に残した娘の元に帰るために音楽をやめると宣言したために、歌うべき楽曲を失うことを恐れたデラクルスがヘクトルを殺害し、ヘクトルの作った曲をすべて奪ったのだった。

真実を明かされたデラクルスは一転してミゲルへの祝福を拒み、彼を監禁する。

監禁中、ヘクトルとの会話の中で、故郷に残したまま二度と会うことができなかったヘクトルの娘の名前が「ココ(Coco)」であることを知ったミゲルは、ヘクトルこそが自分の高祖父であることを知る。

その後は、ミゲルの救出にやってきた高祖母イメルダたち祖先チームとともに、悪役デラクルスを退治する。

が、高祖父ヘクトルの魂は消滅に瀕していた。なぜなら、地上でヘクトルのことを覚えている唯一の存在である娘のココが、父ヘクトルのことを完全に忘却しかけていたから。

祝福を受けたミゲルは生者の世界へ帰還し、消えゆく高祖父ヘクトルの魂を救うために、曾祖母ココの元へ急ぐ。

ミゲルは曾祖母ココに対し、かつてヘクトルが愛する娘に歌いかけた曲「リメンバー・ミー」を高祖父ヘクトルのギターで弾き語ってみせる。ココは父の記憶を取り戻し、ミゲルと一緒に歌を口ずさむ。

そんな感じで一応ハッピーエンド。

 

3. 感想

「記憶されることによって人は生き続ける」という、ありがちな主題に対して、自分のことを記憶してくれる家族も友人もいない人の立場はどうなるの?という素朴な疑問は誰もが持つと思うのですが、それに対してこの作品がどういった気の利いたメッセージを返してくれるかと期待して鑑賞したのですが、案外そっけないものでした。

 

この作品の主題はあくまで家族の素晴らしさを素朴に訴えることが中心だったようです。同じディズニー/ピクサーの『アーロと少年』(原題"The Good Dinosaur" 2015年)のラストも同じように素朴な「家族推し」だったので、主題の路線は一貫していると言えるのかもしれませんが。

 

リメンバー・ミー』の作品世界の設定としては、誰からも記憶されることのない者は、消失し(fade)、「最後の死(the final death)」を迎えるということになっており、ヘクトルに連れられてミゲルが訪れた「帰るべき家族のいない no family to go home to」人々の集うエリアで、ヘクトルの友人チーチ(Cheech)がファイナル・デスを迎えるシーンは、この作品の中で最も興味深かったです。

Hector: Our memories, they have to be passed down by those who knew us in life in the stories they tell about us.
But there is no one left alive to pass down Cheech's stories.
It happens to everyone eventually.

ヘクトル:僕達の記憶っていうものは、生前僕達のことを知っていた人々によって、僕達について彼らが語る物語を通じて伝えられなければならないんだ。
チーチの物語を伝える人は地上からもう誰もいなくなってしまったんだ。
それは結局、誰にでも起こることさ。

  

上に引用したのは、チーチが消失した後、ヘクトルがミゲルに対して言ったセリフですが、最後の一節が強烈です。「それ(誰からも忘却され、魂ごと消失してしまうこと)は結局、誰にでも起こることさ」。


これは、記憶によって人は生き続けるというありがちな主題を全否定するだけの力を秘めた一節だと思います。前述した、地上の重力を受け入れようとする人々と、重力から離脱しようとする人々との二つのタイプの魂が存在するという話に引きつけて言えば、この一節が意味するのは、最終的には(eventually)、すべての魂が重力を離脱するのだということです。家族によって記憶されることは、たんなる一時的な引き止め=慰みに過ぎないと告げているに等しい。

要するに、重力がもたらす愛着や未練から距離を置き、ファイナル・デスを迎えることこそが、魂の進むべき方向だということです。魂のアセンション(Ascension)と呼ばれる事態はまさにそういった解脱のことです
その意味で、チーチは地上の重力を振り切ってアセンションを見事に成し遂げたのです。チーチ消失シーンは、いかにも寂しく惨めな印象を与えるように描かれてはいますが、これは作り手による偏見です。地上の重力に抗って、自由を勝ち取ったチーチこそ僕達の模範です。

リメンバー・ミー』におけるチーチの消失シーンは、『カンフーパンダ』(原題"Kung Fu Panda" 2008年)伝説の名シーンとして名高いウーグウェイ導師のアセンション・シーンに匹敵する名シーンだと思いました。チーチ・アセンズ。

アセンションの時が訪れたのを悟ったウーグウェイ導師は、弟子に対して「You must continue your journey without me.(私抜きで、君は旅を続けなければならない)」と言い残し、風に舞う桃の花びらとなって消失していきます。有名な"Oogway ascends"のシーンです。)

 

 

 

残念なことに、この作品では最終的に、音楽(重力離脱のモチーフ)と家族(重力引受けのモチーフ)との緊張関係が取っ払われ、音楽が「家族のための音楽」という形に押し込められてしまいます。それは次のようなセリフに顕著に表れています。

Hector: I didn't write "Remember Me" for the world. I wrote it for Coco.

ヘクトル:僕は『リメンバー・ミー』を世界のために書いたんじゃない。ココのために書いたんだ。

 当初は地上の重力に抗う魂の営みを象徴するものであった「音楽」というものが、軽薄な殺人者デラクルスとともに、単純な悪役として認定されてしまいます。音楽は、重力の影響下にとどまり、家族に奉仕する限りでその存在を認められるにすぎません。

この作品が最終的に掲げるメッセージは、保守的です。この作品は、地上の重力を引き受けることを肯定します。普遍性を象徴していた「音楽」のモチーフがこてんぱんに叩かれ、「家族」という特殊性に奉仕する地位に貶められてしまいました。

 

というわけで、結論。家族の絆の大切さを訴える素朴なメッセージには大いに感動したものの、家族とは無縁な境地で本当の自由を勝ち取った、チーチのファイナル・デスこそが、魂が最終的に目指すべきところだという裏メッセージを受け取って満足することにします。

最近のディズニーの「家族」推しを批判する気は全然ないのですが、教育勅語を幼稚園児に唱えさせるようなレベルで「伝統的家族の価値の復権」のようなことが叫ばれたり、「家族は、互いに助け合わなければならない」などという条文が憲法改正案に盛り込まれるような現在のこの日本社会においては、ナイーブなまでに家族の価値を称揚してみせる作品がベタに受け取られてしまいそうで心配です。

リメンバー・ミー』名作でした。面白かったです。

以上